誰を救い、誰に救われたいのか

誰を救い、誰に救われたいのか

 

また熱波。この現象も、あと数年後には気にもしない恒例の気象現象になるのでしょうね。しかし、クーラーなしで「暑さ」が滞留し、扇風機を回してもダメ。また日本とは違う新鮮な暑さです。「じと~」っとせずに「もわ~」っと長時間暑い。こんな表現しか頭に浮かんできません。

よくよく思い出してみると、このような「殴り書き」を初めて約20年が経とうとしています。「読む人がいれば、プロ」と表現される方がいます。一方で「認めてもらえれば、プロ」と言われる方もいます。

どちらにしても、表現の自由と最も抽象的な言葉が認められているわけですから、書いたもの勝ち・表現したもの勝ちになってしまうのでしょう。

さて…、安部晋三氏の悲報により注目され始めた「政治と宗教」の密接なつながり。「これは、数字を稼げる!」と言わんばかりに、言いたい放題の状態に突入しています。

他国と比較して、宗教への違和感が強い日本。

細かい部分まで掘り下げると、「素人がごちゃごちゃ言うな!」と叩かれてしまうので、誰にでも見えている部分だけに焦点をおきましょう。

また、「宗教にまつわる課題」は解決できない永遠のテーマであることは、覚えておかなければなりません。つまり、結論から話すと「どうやっても、答えの出ないテーマには触れるな!」ということになります。

だからこそ、言ったもの勝ちと考える人たちは「人が興味をもつようなタイトル」で書かれることが多いです。

現在の日本で、このテーマに触れるとするならば、この事件に触れないわけにはいきません。既に人々の記憶から消えかけている、約27年前のオウム真理教による様々な事件。その後、名称を変えて再び信者を増やしている…と報道されていました。

「信じる・だます」の紙一重の話が、やがては一人の「欲の肥大」から起きてしまった悲しい事件。

小さなほころびが、誰にも止めれない大きな雪だるまのように転がりはじめ、「勘違い」というレベルでは解決できない状態になってしまいました。今回の安部氏の悲報も、様々な憶測や誤解、勘違いが引き起こしたともいえます。

日本だけでなく世界の歴史を紐解くと、必ず政治と宗教は密接な関係にあります。

何千年も前から、その関係を断ち切ろうと、多数決 > 謀反や反乱 > 制圧・抑圧 > 紛争 という流れで、罪のない人々までも巻き込んで血の争いを繰り返してきました。

「人々を束ねる力=求心力・人心掌握術」を求めるのが世の常です。

「自分にそんな力はない…。」となると、その力を備えた人間に「都合よく」ついていきます。自分の襟は正さなくとも、「人々を束ねる程の人間は、模範となるべく行動すべき」だと勝手に思いこみます。

つまりは、その人を「神格化」してしまうのでしょう。

例えば…、れいわ新選組の山本太郎氏は良い例です。

彼は、10代に一般人としてテレビに出始め、奇抜なキャラクターが買われて芸能の世界へ。

様々な活動を経て、2011年の東日本大震災の頃から、政治への発言と活動が活発になります。

徐々にそれまでのイメージとは全く逆の「爽やか、明朗」を身につけ、今では野党でも注目される人物の一人にまでなりました。

おそらく彼の支持者の多くは、彼を神格化している可能性は高く、「模範」となる言動を求めようとするでしょう。

さらに言えば、「政治に関わるなら尚更模範となる行動をすべき」とアンチの人々はより厳しく目を光らせるでしょう。

この「模範」という言葉が最も厄介で抽象的であるために、その「基準」として宗教が用いられてきたのもあるかもしれません。

そこから、「政治と宗教、どちらが強いのか」という鶏と卵の話になってしまったと私は考えます。

もう一つ例を出すと、「会社の決算書」です。

一般的に決算書というと、1年の会社の成績表と表現されます。そのために、この数字を使って社会科学の研究者は研究を進めます。

しかし、決算書とは「表に出しても良い、静的な数字」だと分かっていても、誰も指摘はしません。

会社は「公の存在」という変なレッテルを貼られ、嘘は受けないという前提(=模範)で税理士が一生懸命作成します。

では、そんな素晴らしいものに、「脱税」や「粉飾」が生まれてくるのか。

簡単に言えば、「きれいごとを並べて商いができるなら、誰だってできる」というのが本音にあります。

それぞれの「力」の違いから、したくもない仕事をこなし、出したくもない金を出す…、それがリアルのビジネスです。

そんな時、だれしも「汚れた手を綺麗にしたい=許されたい」という欲を抱えしまうため、「懺悔」の念を和らげる役割を果たしてきたのが、宗教です。

かなり長くなりましたが、人が追い求めれば追い求めるほど、政治と宗教、そしてビジネスと私たちの生活との関係は複雑に絡み合っていくことになります。

答えが出なくなった時、人は「何かに」すがりたくなります。それが、家族であったり、恋人や友人も同じです。

しかし、そんな人たちへの想いが強いと逆に話すことができなくなり、「出すところがない、穴でもあれば叫びたい」となります。

それらを凌駕する存在、そうです。「神、仏、アラー」といった「見えない存在」にすがりたくなるのです。

さて…、ここで話せば少しは伝わったでしょうか。「なぜ人は、人を救えないのか」

自分の半径2メートルでさえも、解決できないことおが多い現代の社会で、どうやって人の心が救えるか。

おそらく、「スピリチャル」という言葉が、ここ数年様々な場所で見受けられる、聞こえるようになったのは、こういったことと深く関係していると想えてなりません。

さて、皆様は誰を救いますか? そして、誰に救われたいですか。

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